それでも逝きたい者達へ

メンヘラと認めたくない精神障害者のはなし

なんで自分の事なのに何も理解ができないのだろうかという永遠の疑問

 

精神疾患あるあるじゃないですか

自分を愛して欲しいとかいうアピールができる人はある意味で自分を表現出来て自我があるのだろうけれど

一瞬でも愛を感じられるのであれば誰とでも付き合える、セックスが出来る。あたしの理解の範疇外ではあるが、それも立派な障害なのだろうな、と思う。

 

あたしがメンクリに通うようになった理由①の続きは今度。とりあえず今回は全く関係ない話をしていく予定だ。

 

何故かって明日メンクリ受診の日だからである。私のメンクリルーティンは予約時間に待合室に飛び込み、(いつも余裕を持って行ってるつもりが受診の前にメンクリの近くにある喫煙所で一服して遅れてしまう)先に45分くらいのカウンセリング(と言いつつだいたい雑談)の後に5分~10分の診察。

 

診察はいつも「最近はどう?」から始まる。

どう?ってどうなんですかね!!!!あたし自身が分からなくて困ってるんですがね!!!!と思いながら、さいきんあったこととかを軽く話す。先月は「彼氏と別れました!殺意を持つことで気が楽になりました!!」と伝えたが半笑いされた。そりゃそうだ。

 

今月は色々なことが重なりすぎて、鬱も酷かった。でもどう伝えたらきちんと汲み取ってもらえるんだろうか。と不安でしかたないので、ここにまとめておくことにしようと思い、筆を取った次第である。いつも通り「薬はこのままでいいかな~」と言われて終わるのがあたしは嫌いなのである。それこそ崇高な悩みなのだろうか?もっとなんかいい薬ないですか?薬をください!!なんてヤク中アピールをするにも恥ずかしく、アッハイと診察室をあとにするのだ。

 

 

まず、今月あったでかい事件

『父親が救急車で運ばれた』

アル中である父は、アル中ではあるがアクティブでアウトドア人間である。運ばれる前日は友人とバイクを乗り回し隣の県まで遊びに行っていた。元気だな、5〇歳。(親の実年齢など知らない)

運ばれたのはなんとあたしの誕生日の前日である。

土日の父親の日課であるテニスを終え、(友達いっぱいいていいなあ)車検を控えた自宅の車の整備をしていた夕方である。

突然「頭が痛い。なんか視界もぼんやりする」と訴える。しかし、意識はハッキリしていたし会話もできた。熱中症じゃないの?と言う母親に、うーんうーんと言いながら横にはなりたくない。と呟いていた気がする。確かに具合は悪そうだったし、あたしはそれを、横目で見ながら自室に篭もった。

その一時間後、突如として救急車のサイレンが自宅へ近付いてくる。まさかと思った。あたしは確認をすることなく、布団にくるまったまま、Twitterに「なんか、親父が救急車で運ばれてった」と呟いた。同じ空間にいたくせに、何一つ把握をしようとせず、少ししてから父親に同行したであろう母親にLINEで「なんか大事になるようなら連絡して」と送り、なんとなくぼんやりと過していた。

すると程なくして、母親から「パパ、クモ膜下出血みたい。大学病院に向かってる」と。

 

え??クモ膜下出血???なんかそれってやばいやつじゃなかった??突然倒れたと思ったら死んでる!みたいなやつ!!!心筋梗塞とかそんな感じのやべーやつじゃん!!!と、テレビで見るくらいの知識しかないあたしは、即座にWikipediaを開く。めっちゃやばいやつだった。でもアル中だしなあ。みたいな、心配するでもなく不安になるでもなく、ましてやパニックになるでもなく、ただただ淡々と「そうなのか」と思った。

恐らく混乱しているであろう母親の代わりに祖父に連絡し、少し遅れて大学病院へ。

父親はICUにぶち込まれ、体には管が繋がれ、呼吸は首になにか太いものが刺さっていた気がした。控え室に親族が集まり、みな不安そうな表情を浮かべ、ハンカチで涙を拭う母親を横目に、あたしはどこまでも冷静だった。

 

初めて涙したのは手術前、呼吸器のついた父が痛み止めと軽い麻酔で横たわっている姿を見て、声を出せないからとあたしの手を引き、手のひらに「しゅじゅつするの?」と指でなぞって、意思疎通を図ろうとした時だった。なんでこんな元気だったのにな、情けねえよ。と自然と涙が出る。なんで泣いたのか全く覚えていない。悲しくも不安でもなかったのだ。

この病気は致死率はもちろん、後遺症や合併症を引き起こす可能性が非常に高い。下手すりゃ死ぬし、脳死だって半身不随だってある。

あたしは始めて身内の「死ぬかもしれない」に直面した。大丈夫大丈夫とあたしに声をかける叔母に、「大丈夫です」とだけ答え、あたしは取り乱した母の代わりに書類にサインをしたり母の背中をさすったりと、現実味のない現実に多分向き合っていなかった。

夜も遅く手術は早くて明日になると、あたしと妹は先に帰宅することになった。日付けが変わる。あたしの26歳の誕生日だった。帰りがけにコンビニにより、タバコをワンカートン買った。

 

母親は深夜に一旦帰宅したが、かける言葉も見つからず、半分涙声で「お酒ばっか飲むから……」と俯く母に、退院したら禁酒させないとね。寝れないかもしれないけど、少しは休むんだよと伝え、自室に篭もった。

 

そうして、あたしは急な不安に襲われる。それは、父が死ぬことよりも何よりも、もしもがあったら母親はどう生きていくんだと。残された母親は、どうするんだと。お前が生涯支えるために結婚したんだろ。こんな所でくたばっちゃいけないだろ。なんで、そんな死にそうな場面に遭遇するのはあたしで良かったのに。あたしが、母親を守れるわけがないじゃないか。あたしが、死にたいあたしが死ぬべきだ。社会貢献していて家族もいて、やることがまだあるお前がなんで死にそうになってんだ馬鹿野郎。死んだら一生恨むからな。あたしが代わってやれたら誰も悲しまずに済んだのに。延命治療なんてしなくていいから、そのまま静かに眠らせてくれたらよかったのに。

そう思いながら酒を流し込み、腕に剃刀を押し当てる。不謹慎だろう?分かってんだよ

でもどうしても許せなかったんだ。

だってあたしは、父親が運ばれたあとに『何事もなく父親が帰ってきたら娘が首吊って死んでたら面白くない?』なんてエンターテイナーを気取っていたのだから。

 

翌日、家族総出で手術の説明を受け、リスクの話も聞き、また涙する母をただ見つめ、あたしはCTで撮られた父親の脳みその写真を、呆然と見ていた。話が終わり、早速手術を始めるという。早くて6時間程度と言われた手術は、確か10時間を越えていた。

元々不眠症であるあたしは、色々と取り乱した後にふっと虚無になる。これからどうなるんだろう。

手術は成功した。合併症や後遺症の心配もなく、そろそろ集中治療室から一般病棟へ移れるらしい。父親は短気なくせに、仕事には真面目で、連絡させろと声を荒らげ、集中治療室にいるにも関わらず母親から携帯を取り上げる。

こんだけ元気なのだから大丈夫だろう、とあたしは息苦しい病院へ、見舞いへ行かなくなった。とんだ親不孝者であることはわかっている。母親も妹も毎日のように見舞いに行っている。

父がもし、あたしが顔を見せたところで少しでも喜んでくれたのなら、違ったかもしれない。術後で痛くて苦しくてイライラするのはわかる。でも、父は一切あたしに話しかけはしなかった。それがとても気に食わなかった。

あれだけ父の生存を望んだのに。代わりになってやりたいと思ったのに。

 

それから、あたしは殻にこもるようになった。食事も風呂も、起きるのも億劫で、以前記事にしたゲームの話にも出ていたように、これまで日課にしていた趣味も放棄した。母が眠りについた頃薬と酒を飲み干し、腕を切り、吐こうにも空っぽな胃が無理に押し出すのは胃液とアルコールのみである。ヒリヒリと喉に仕えて痛かった。

アムカの程度も悪くなる。頻度が増え、もっと深く、もっと血が見たいと。毎日死にたいと唱えながらベッドの上でのたうち回り、首吊りと飛び降りならどっちがまだ迷惑がかからないだろうか。そんなことばかり考えている。

つまりは、他人にも自分にも余程執着がないんだろうと、あたしは身内の死の危険を体験するにあたって実感した。

多分父が死んで、喪服に身を包み涙を流しても、その涙の理由は分からなかっただろう。むしろ、棺桶の前でどうしてお前が先に死ぬんだと激怒していたかもしれない。

 

あたしはまだどうしたらいいかわからない。

わからないのだ。