それでも逝きたい者達へ

メンヘラと認めたくない精神障害者のはなし

メンクリに通い出すきっかけになった話①

 

あたしは昔からメンヘラの気質があった。気質というか変則的なメンヘラである。

 

自覚したのは中学二年の頃だったか。あたしはまだ元気にオタクをやりつつ、カースト上位のヤンキー(小中共に荒れた学校だった)に中指を立てつつ、別にだからといって全く話さない訳では無い、そんな中立的な立場であったと思う。中指立ててたのはたまたま仲良くなった見た目からしカースト最下位のいじめられっ子代表みたいな彼女と仲良くなったからだった。(彼女は今後A子ちゃんとする)

彼女がいじめられるようになった理由は多分性格とかではなく、まあ友人間以外では大人しい子であったが、小学校→中学校に上がる過程で、大抵の人間は同じ地区内の中学に入るわけだ。彼女はその地区外からの入学生で、最初から友達ひとりいなかったのだ。

クラスは違っていたため出会いは部活動。まだ健常者だったあたしは、吹奏楽部に入部した。決して強くも上手くもない、割と気楽な部活だった。そこでA子と同じパートになったのが出会いである。オタクを打ち明けるまでは秒で、仲良くなるまでも一瞬だった。だからあたしはA子を虐める輩に中指を立て、お前が死ねよと吐き捨て自分なりに守っている気分だったのだ。

当然そんなことをすれば自分にも矢が刺さるわけだが、何故か気にすることなく我が道を進んでいた。

 

そんな時である。生まれて初めて『精神疾患』というものがある事をしる。先輩の卒業コンクールの前だった。別パートのとある先輩が学校や部活を休みがちで、このままでは部活として音楽をやっていくためには成り立たないと、部内全体で問題視したからである。

部員全員、1人ずつその先輩に「今どう感じているかどうして欲しいのか伝える」というミーティングが開かれた。今思えば残酷な話である。これまた残酷だと再認識したのはあたしの告げた一言。

『精神的な体調の悪さとか全然私には分かりませんが、出来ることなら一緒にコンクールに出たいです』と伝えたのだ。

後に精神的な体調不良を身にしみて味わうことなど知らずに。

先輩は頑張っていた。一緒にコンクールにも出た。そして世代交代の時期がやってくる。

3年生は受験を控え引退、自分の代が中心となっていく。あたしはその事実に、空気に、どうしても耐えることが出来なかった。名ばかりではあるがそれなりの地位を与えられたものの、コンクールに精を出すという新たな目標を立て、身なり等厳しく見るようになり、明らかに空気がピリピリとしていた。

そして、あまり時間が経たないうちに、精神的な体調不良を実感する事となる。部活に行こうとするとお腹が痛くなる。部室に入ると吐き気がする。ミーティングの時は常に吐きそうになりながら多々嗚咽を漏らしていた。

ああ、こういう事だったのか。先輩理解できないなんて言ってごめんねととても悔やんだ。

あたしはたまに部活を休んだり早退したりするようになり、学校にも行かない日がたまにあった。しかし、部活に関してはなんとか乗り切り、そして最終的にいい痛いの仕方が出来たのだと思う。実を言うととても楽しかった。充実していた。

 

世代交代は突然やってくる。引き継ぎを終え、受験に向けて考える時期がやってきた。

あたしは行きたい高校もいくつかあったが、偏差値で諦め(勉強はしたくなかった)、公立にさえ入ってくれたら金銭面で助かると言うことを知り、それなりの倍率で尚且つ交通費もかからないような近場の高校を選んだ。

その間、中学三年生の1年間何をしていたかあまり覚えていない。友人とおなじ塾に通った。塾は遊びに行っている感覚だった。

けれども、三年の時の担任が何度か自宅までわざわざ出向いていたことがあったのだから、恐らく不登校の時期が多々あったのだと思う。

朝身支度をし、学校へ行くふりをして近場に身を隠し、母が仕事に出たことを確認して自宅へ戻り引きこもる。学校から親へ連絡が行かない訳もなく、あたしはしこたま叱られた。なぜ行かないのかと。私は分からなかった。ネットもない、やることもない、学校で嫌なことがある訳でもないのに不登校になっていたことを。

父は短気である。それはもう今問題にすれば大事になるだろう。いわゆるDVを受けていた。蹴られ殴られ、扇風機を投げつけられた。

流石にそれを見かねた母は逆上し、初めてあたしを車に乗せ夜遅くに家出をしたこともある。

不登校癖はもう治らないものである。所謂適応障害にあたるとあたしは考えるからだ。

この頃から自傷を覚え始めた。まずはカッターで、次は予備のカミソリの刃で。1度包丁を試して見たが、力が入らず傷はつかなかった。

 

無事中学を卒業し、目当ての公立高校に受かり、華の高校生活が始まった。

と思えばこの高校は県内でも随一の高速に厳しい学校であった。どれくらい厳しいかと問われれば、まとめきれないくらいなので、軍隊だとでも言っておこう。

入学式から早々、髪を染めている人間は1週間ももたず退学していき、毎月同級生は減っていく。体罰は当たり前で、刑務所かよとあたしは日に日に病んでいた。

そして登校拒否の時期はくる。待たずとも来るのだ。嫌いな教師の授業は保健室へ逃げ込み、軽い常連になっていた。次第に学校にすら行かなくなる。友人は割と多かった。けれども、類は友を呼ぶという感じで、その中の数名もよく学校を休んでいたものだ。

学年が上がり、学校の仕組みがかなり特殊な単位制になりだいぶ過ごしやすくなった。復学しては登校拒否を繰り返し、その頃には手首にびっしりと切り傷が刻まれていた。体育の授業は苦痛だ。整列をして構える。後列の生徒に傷を見られないように必死で手首を握っていた。

また学年が上がり、あたしは就職なんてしたくなくて、だからといって大学進学のために勉強もしたくなかった。結局適当にデザイン関係の専門学校へすすむことになる。

今思えば、偏差値の低い女子大にでも行けばよかったと後悔するくらい、専門学生時代は短く幕を閉じたのだ。

 

高校から専門にかけて、あらゆる自傷をしていた。手首を切り、夏場は靴下で隠れる足首を切り、大嫌いな教師の授業でとんでもない点数を取った時は、授業中でありながらも半泣きで授業中にカッターを出し血が出過ぎない程度に腕をこっそり切っていた。

不登校に理解のない親は当然のようになぜだと問う。あたしはぐるぐると混乱した頭で、理由もわからずただひたすら泣き喚き、叱られている間は爪を腕と手の甲にくい込ませ、皮がむけ真っ赤になるまで歯を食いしばった。

 

2年か3年の途中、登校すらままならない程に持病が悪化し手術にいたるまで、確実に落とせない単位の授業だけ見学参加をする生活。修学旅行と手術が被り、あたしはいけなかった。

その代わりに修学旅行の積立金で手術代を賄った。仲良い人間以外との団体行動が苦手なあたしは、行かなくてよかったとも思っているから大した後悔はなく思い出もいらなかった。

 

しかし、問題は入院中の話である。おそらく10日ほどの入院リハビリの生活であったが、当時は男関係でメンタルをヘラっていたのだ。

朝は早く消灯も早く、規則正しい生活に慣れていないせいもあり夜は眠れず、ただただ孤独感に支配され、深夜の病室を抜け出し真っ暗な病棟を徘徊し、トイレの個室で泣きじゃくった。今すぐにカッターでもいいからカミソリが欲しい。手首を切りたい。切って楽になりたい。助けて、寂しい。と完璧なる思春期メンヘラである。

退院後はゆっくりと高校へ復帰し、男関係のメンヘラ芸も途中ですっぱり縁を切り、軍隊の中ではあるがそれなりに楽しくオタク活動に花を咲かせていた。高2の頃の担任に、なるべく学校来てねと切なそうに言われた時は心苦しくなった。

 

来るLJK(これはもう今では死語なのか?)、嫌いな教科は保健室へ逃げ込み、たまに休み、単位に余裕が出てきて専門学校も合格。

その瞬間から糸が切れたようにまた不登校が始まる。よく卒業できたよな、と今では謎である。授業は真面目に受けることなく、ノートを写してるふりをして別のノートに落書きや、同人ネタを書きなぐる。定期テストの勉強などいっさいせずに、当時は優れていた瞬間的な記憶力で、休み時間10分教科書をぱらぱらと捲り、それだけでやり過ごせていた。ある意味最強である。美術や情報関連の実技は全く問題なく、寧ろ学年トップの成績で鼻を伸ばしていた。なんちゅー偏り。適当に受けていた簿記の資格試験は仮病でバックれた。テストの点数も赤点ギリギリ、授業中はだいたい寝ていた気がする。

 

そうして不登校を繰り返しつつ卒業。

嫌なことが多すぎてほぼ3年間の記憶が無い。華の女子高生とはなんだったんだろうか。まあ、楽しくオタク活動に精を出していたんだから、そういう意味では充実していたのだろう。

 

こうして形成されて行った逃げ癖は、さらにこれから拍車をかけていくことになる。

次は専門学校~フリーター時代の話を書こうと思う。学生時代の話なんてなんの面白みもないくせに、文字にして興すと割と問題児だったんだろう。

 

あと、ついでにこの高校時代に女の子を恋愛対象とみるというきっかけがあった。

それも後々書いていこう。

 

 

 

はたから見たらヤンキーよりタチの悪い生徒である。もう一生あの高校には行きたくないし、身近に進学希望する人がいるならば全力で止めたい。3年間を無駄にするぞ。ただ、社会の厳しさに抗う術はみにつくかもしれないけどな。